長崎型原爆のその後−量産型核兵器の歴史と教訓

冷戦後に軍拡競争によって共に疲弊した米ソ両国が歩み寄り大量殺戮兵器である核兵器の解体が本格化した。チェルノブイリ原発事故が起きた1986年のソ蓮崩壊をきっかけにピークに達したソ連(ロシア)の保有数が5,000のラインまで減った。一方、米国の保有数は政権に依存して階段状に低下し終局的にはロシアと平衡を保つ5,000ライン付近で落ち着いている。

 

US and USSR nuclear stockpiles.svg

 

Source: Wiki

 

冷戦で一気に増えた核兵器

上の図をみれば1946年の広島・長崎への原爆投下により始まる核兵器の実践配備は1948年ごろから増えて1965年ごろにロシアより一足早くピークを迎えていたことがわかる。米ソの核兵器保有数はピーク時にそれぞれおよそ30,000発、40,000発となり両国の全面戦争が事実上意味をなさない、つまり一方的な勝利はないという意識が冷戦下での均衡を保てた理由であった。

しかし現実は①両国とも5,000発の核兵器(水爆)の保有を続けていることに加えて、②英国、フランス、中国、インド、パキスタン、北朝鮮、イスラエル(非公式)の7カ国に加えて、イランの核保有疑惑や潜在的に中東諸国や韓国までが核保有を目指していることなどを考慮すれば、核戦争のリスクはむしろ強まったといえるかもしれない。

ウラン濃縮のルートでの原爆製造やイラン核疑惑と核交渉については別の記事を読んでいただくことにして、ここでもう一度、量産型核兵器が長崎型原爆から派生したことを確認し、実戦装備されたこの量産型原爆が行方不明になった事例を紹介し、改めて核兵器廃絶への道を探る必要性を考えてみたい。

 

長崎型原爆が量産型核兵器につながった理由

広島型原爆と長崎型原爆の被害は大きな差はないが、核分裂を引き起こす方式も材料も全く異なることはよく知られている。広島型原爆はウラン235、長崎型原爆にはプルトニウム239が用いられる。核兵器への道はしたがってウラン、プルトニウムの特定同位元素のみを90%以上に濃縮することから始まる。ウラン濃縮にはいくつかの方法があるがいずれにしても段階的に濃縮するために大規模な施設とそれを稼働させる大量のエネルギー(電力)が必要となる。

1942年から開始されたマンハッタン計画においてウラン濃縮の舞台となったのはオークリッジの施設(現在のオークリッジ国立研究所、ORNL)で1933年にルーズベルト大統領の肝いりで建設されたTVAの電力が豊富に使えた。(現在は3基の原発を運営するTVAの本部はオークリッジと空港を共有するノックスビルに置かれている。)ただしウランの濃縮のほかに、精製がミズーリ州セントルイスの化学工場(注1)で行われた。

(注1)現在は閉鎖されているが、当時の放射性廃棄物が住民の健康被害をもたらし問題になっている。

 

 56602744 nuclear bomb device 464 text

Source: BBC news

 

長崎型と広島型

長崎型原爆に用いられたプルトニウム239は自然界に存在しないため核反応でしかつくることができない。そのため製造には黒鉛型原子炉や重水炉が使われるが、原子炉で発生する熱を発電に利用できることと、ウラン235に比べて臨界量が1/4以下と少なくて済む(小型化できる)などの量産型兵器としての好ましい条件がそろっていた。

一般には未臨界のウラン235やプルトニウム238の塊を近づければ臨界に達し核反応が持続するのだが、兵器として用いるには高速に臨界値を超える塊をつくりだす方式が必要になる。これもよく知られているように広島型原爆(リトルボーイ)ではガンバレル方式と呼ばれるように円筒の両端にウラン235の塊を配置し一方を大砲の弾丸のように火薬で吹き飛ばして、もう一方と合体させる。後述するように臨界に達した部分が先に核分裂を起こして吹き飛んだり臨界に達する均一性に核反応の収率は強く依存するため、核兵器の効率は意外と低い。(広島型原爆では2%)ガンバレル型の最大の欠点は臨界を均一に起こすことができないことであったが、それ以外にも様々な安全性の問題があり量産型としては採用されなかった。例えば事故などの衝撃で両端が近づくだけで臨界に達する危険性など。ちなみにリトルボーイの型式はMark Iで量産型核兵器(Markシリーズ)の1号機であった。

 

これに対して長崎型(ファットマン)では爆縮型(インプロージョン)と呼ばれる球状のプルトニウム235(デーモンコア)の周囲をタンパーと呼ばれる核反応で吹き飛ばないための「締め付け材」(初期の量産型原爆では劣化ウラン)で囲み、周囲を8方位から爆発速度の異なる火薬を組み合わせた火薬で囲む構造(注2)になっている。

(注2)フォン・ノイマンのアイデアで球体を32面体で分割し爆発速度の異なる火薬を使うことで均一な爆縮が可能となった。ファットマンはロスアラモスの施設で製造された(現在のロスアラモス国立研究所)。ノイマン型計算機の父、フォン・ノイマンが原爆製造に関わったことはあまり知られていない。しかし爆縮の均一性を計算で検証するために彼が果たした寄与は大きい。現代の計算機と有限要素法のコードを組み合わせれば、瞬時に解決できる衝撃波発生と伝搬過程の解析に当時はノイマンが計算に相当の労力を費した。下図のように衝撃波の波を中心に向くように外側からの波に内側からの波を重ねるところが最大のミソである。爆縮に最先端の頭脳が投入された。

 

Implosion-Cutaway

Source: atomicarcaive

 

なおプルトニウムコア(デーモンコア)の製造はワシントン州のハンフォードの施設で行われた。セントルイスの化学工場と同様にハンフォード施設も閉鎖され除染されたが、周辺地区は放射能汚染で住民の健康被害が現在も問題になっている。

プルトニウムコアの中心に置かれる中性子発生源(イニシエイター)は初期に中性子発生源となり核分裂反応を確実に起こすための起爆剤であり、ポロニウムもしくはベリリウムである(注3)。プルトニウムコア(デーモンコア)は半球状に2分割されて製造された。ファットマン(Mark II)は量産型原爆Mark IVへと発展する。

(注3)ファットマンおよびMark IVに核反応の起爆剤として使われたBe9とPo210は爆縮で混合される。Po210がα線をBe9に吸収され核反応起こしBe9はC12と中性子になる。この中性子が起爆剤としてプルトニウムの核分裂を引き起こす。なおPo210は5.4MeVの強力なα線源として崩壊熱を熱電素子で電力に変える原子力電池としての用途がある。(ポロニウム同位体の発見はキュリー夫妻による。)

後に爆発力を高めるためにプルトニウムコアの内側に二重水素(D)と三重水素(T)を封じ込めた高性能版が登場した。中性子起爆剤の代わりにおかれたD-T混合ガスはD-T核融合反応を起こし高速中性子が起爆剤にかわる中性子源となる。このため核分裂反応のエネルギー収率が向上し威力が高められる。ただしここでの核融合反応はあくまで中性子源としてのものであり水爆のカテゴリには入らない。

 

戦略爆撃機B-36-075号機の墜落

冷戦時にとった米国の戦略爆撃に核兵器を積んで24時間体制で上空に待機させることには偶発的な核戦争につながるリスクが大きかった。特に安定に長距離飛行ができたB-52以前の任務はB-36という巨大な6発プロペラ機に2個のMark IVを積んでテキサス州フォートワース空軍基地から北太平洋上を北上しアラスカ上空を飛行して帰還する際のリスクは相当なものであった。

ただしここで紹介する075号機(正確には92075)は戦略空軍が大陸越えの長距離爆撃を行うための模擬爆弾投下という秘密の任務についていたため、アラスカ基地から離陸してカナダのブリテイッシュコロンビア州をかすめて海岸沿いに南下し、米国モンタナ州Great Falls空軍基地を経てサンフランシスコに向かい模擬投下を行ったあとテキサス州フォートワースに帰還する15時間フライトであった。量産されたMark IVを積んだ最初のB-36が075機であったが、不幸なことが乗組員を襲うことになる。(以下はカナダの調査に基づいてつくられたMark IVを積んで墜落した075機のドキュメンタリ、Discoveryチャネルを元にしてい。のちに現場を調査したCraig氏によるレポートにもあるので興味のある方は参照されたい)

 

まずB-36はB-29の拡大版にみえても巨大化して軽量化にマグネシウム合金を使ったため火災により爆発燃焼の危険性があった。また6発といえども馬力不足のため最終的には両翼に2基づつ計4発のジェットエンジンを追加したほど、推力不足であった。(注4)075機は15時間のフライトであったが燃料は50時間以上の満タンで4トンのMark IV 1個を積載していた。

1950年2月13日、アラスカの極寒でふたつある原爆収納ハッチのうちひとつのドアが破損したため、積載できたMark IVは1個であった。Mark IVは機体に装備されるとき安全のためプルトニウムコアと外側の起爆装置の一部は取り外されている。プルトニウムコアの輸送には「鳥かご」と呼ばれる格子に固定された特殊な容器で行う。後述するように機体の残骸から「鳥かご」が発見されたため空軍は公表していないがMark IVは実戦装備されたことが明らかになっている。

(注4)B-36はピースメーカーと呼ばれ384機が生産された。滞空時間50時間、最大航続距離は16,000km。派生型のNB-36Hは原子炉を積む原子力推進機の開発のためのもの。ピースメーカーが抑止力にとどまり実戦で核兵器を使う機会がなかったが、そうでなければ我々はいま存在していない。下の写真の両翼外側のポッドに2個づつ取り付けられているのが開発したてのジェットエンジン。戦略空軍の主役はこのようなエンジンポッドを備えたB-47、B-52に移行していく。

 

1ef4db36d6-1

Source: aerospaceweb

 

075号機はアラスカの空軍基地を飛び立って間もなく左翼にある2基のエンジンが火災を起こし間もなく右側の1基も火災のため、6発のエンジンの半分を失う。出力が下がり機体は成層圏から高度を下げて海上を飛行していたが、機長は重大な「史上初めてのブロークンアロー(核兵器の行方不明)」となる、海上投棄の決断をした。

B-36には専任の爆撃手が1名つきプルトニウムコアと起爆装置の取り付け・取り外しを行う。075機の爆撃手スライヤー(大尉)はもともと民間パイロットで戦略空軍に抜擢された「操縦できる爆撃手」であった。ファットマンの32面体の外側の火薬には起爆装置がそれぞれに取り付けられていて、同時に爆発させなければ設計通りの出力の核爆発ができないが、一個でも抜かれれば起爆装置は動作しない。

 

操縦できる爆撃手が救った最悪の事

スライヤー大尉は外側の起爆装置を、火薬、タンパーをはずしプルトニウムコアを取り出したかどうかは空軍が公表していないため、事故から50年後になってもブロークンアローの真相、コア抜きで海上投棄できたかどうか、は不明である。海上投棄に失敗した形跡が濃い理由はスライヤー爆撃手を除く全員が脱出して生還したが、爆撃手はひとり残って機体を海上からカナダの山中に向けて消息を絶った。

その後、機体が見つかったのは4年後の1954年であった。機体は大きな破壊をまぬがれて尾根に横たわっていたが、空軍の送った調査隊が大量の爆薬を仕掛け機体を完全に破壊した。調査には地元の民間人もガイドとして加わっていたが箝口令がしかれ、爆破した理由はおろかMark IVの状態やプルトニウムコアの行方は闇の中に葬られた。当時の冷戦の中で核情報の漏えいを恐れた結果と考えられるが、史上初の「失われた核」がカナダの山中に眠っていたことになる。

プルトニウムコアを収めた「鳥かご」は民間人によって(不法に)回収され戻されたが、コアが収納されていたのか不明である。事故から半世紀を隔ててカナダの専門家が現地を調査した結果がドキュメンタリになっているが、明確な結論はでていない。もし回収された「鳥かご」にプルトニウムコアが入っていたとすれば、不幸中の幸いである。もし回収されていなければ空軍の調査はスペイン沖のB-52墜落やアラスカの墜落事故のときのように周到なものであっただろうからコアの行方不明という可能性は低いと思われる。写真は通称「鳥かご」(Bird Cage)と呼ばれるプルトニウムコア格納容器とケース。格納容器の設計はロスアラモス研究所。プルトニウムコアは安全のため離陸直前にこの容器にいれて積み込む。

 

CNjEEdoUEAAAwMY copy

Source: DSL Report

 

しかし空軍がコアのないMark IVを爆破したとすればタンパーの劣化ウランが飛散したはずである。カナダの調査隊の放射線測定では現場の放射線レベルは自然放射線より高い程度であった。劣化ウランのU235含有率は非常に低く放射像は天然ウランの半分程度であるがカナダの山中にばらまかれることなく海上投棄に成功していたと考えたい。(推測になるが)海上から反転して山中に着陸を試みた理由は「鳥かご」に戻したプルトニウムコアを守るためであろう。

軍の情報統制によって「失われた核」の真相を知ることは難しい。しかし075機を機長はじめ全員が脱出しても機体を着陸させ事故を最小限に食い止めたとすればスライヤー爆撃手は英雄である。なお機を捨てて脱出して生還した乗組員たちにはその後も機体が空中衝突を起こして墜落するなど不幸がつきまとった。冗長性が何重にもあって危険がないように設計していても、事故は起こる。原子炉事故も起こるはずがない、と考えたことが最大の失敗であった。

 

長崎のファットマンはMark IVとして大量生産されたが飛散な事故につながらなかったことは奇跡に近いのかもしれない。しかしそれもスライヤー大尉のように自分の身を危険にさらして事故を防ごうとする勇敢な男たちのおかげでもある。

 

 

You have no rights to post comments

hitachihightec

hitachihightec science

Copyright© 2013.   放射線ホライゾン rad-horizon.net   All Rights Reserved.