核拡散のはじまり(原爆投下への道)

 広島と長崎に原爆投下を決定したのはトルーマン大統領ということになっている。しかしマンハッタンプロジェクトは大きな「事業」であり、科学者、技術者、軍と軍需産業が一体となって取り組み、20億ドルというかつてない国税が投入された。かつてない科学技術の粋を集めたプロジェクトに最初から実証として原爆投下が組み込まれていたなら、大統領承認には形式的な意味合いしかなかった可能性もある。

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Photo: lessonpaths

 

プロジェクトが大きければ大きいほど慣性力も大きく、どこかで最初の目的は薄れても「ドグマ」は生き続け、妄想にかられるように突き進む傾向にあることも確かである。多くの場合、利益関係で結ばれた一団の長は単なる代理の長であり、自分で意思決定を行う、というよりは代表としてプロジェクトの「ドグマ」に従わざるを得ない、ことになる。

国家プロジェクトが国税で賄われるから国民への責任とやらが、重くのしかかれば失敗は許されない。第一、トルーマンの経歴をみれば原爆や原子力についての知識を持たないまま、大統領に就任し右も左もわからずにポツダム会議に乗り込んで、ロビーイングの最中の会議中に大統領命令を下す際に原爆投下の意味をどこまで理解していたか、また冷静な判断であったのか疑わしい。

 

ポツダム宣言を目前にした連合国会議の最中に、原爆実験(トリニテイ)の結果を知ってから、スターリン率いるソ連とチャーチル率いる英国に対してそれまでの弱腰と打って変わって強気にでたトルーマンは、ポツダム宣言原稿に自筆で3者の署名を代筆したという。

ポツダム宣言には賢明なヘンリー・ステイムソン(下の写真)が(日本が原爆投下前に降伏を受け入れやすいように)天皇制維持の確約をいれていたが、代表団の一員として大統領に随行した国務長官バーンズ(注1)により、実現しなかった。

 

マンハッタンプロジェクトを開始したルーズベルト大統領は、日本に戦争継続の力がないことを認識し、和平交渉に積極的で広島、長崎への原爆投下を考えていなかった。ステイムソン(下の写真)はバーンズが暴挙(ポツダム宣言の書き換え)にでることを恐れ、非公式にポツダム入りした「水戸黄門」的な存在であった。予感は的中したが正式な代表団の一員ではない彼の影響力はバーンズに屈した。ステイムソンは京都を訪れたことから爆撃リストから京都を外させた。

トルーマン関連の資料には原爆投下決定にいたる経緯が詳しく紹介されている。また広島、長崎、小倉、新潟4都市が最終目標とした実質的な攻撃指令文書の日付けは7月25日となっている。グローヴスプロジェクトがマンハッタンプロジェクトであることから、原爆製造から実証(投下)までがプロジェクトに組み込まれていたことをうかがわせる。ポツダム会談は7月17日から8月2日まで。原爆決定がポツダム会談の会期中で列強の力関係の末に行われたことを物語る。

 

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Photo: Wikiwand

 

(注1)政治音痴で科学的知識も乏しく大統領の器ではなかったトルーマンの取り巻きの中で、原爆使用を強く主張したのは、国務長官バーンズ。バーンズはポツダム宣言において天皇制を黙認するステイムソンの提言を無視、原爆投下の反対する科学者たちの提言(注2)も黙殺したが、戦後も原爆カードを切り続けたことで罷免された。バーンズもまた高等教育を受けずして政治家となった点でトルーマンと似ている。マンハッタンプロジェクトのリーダーのレスリー・グローヴス准将もプロジェクトの成功の実証として原爆投下に積極的であった。軍人の立場からはやむを得なかったのかもしれないが、疲弊した日本の戦闘能力に関して過大評価をしていた。

原爆投下の決定に前後するステイムソンの行動に関して詳しい資料がある。

 

ルーズベルト、トルーマン、アイゼンハワーの3人の大統領の中で原爆投下に肯定的だったのはトルーマンのみであった。ではトルーマン大統領はどのように最終決断を行ったのだろうか。焦点となるのはポツダム宣言である。ポツダム宣言時の米軍の日本の戦争継続能力の評価では、「疲弊が大きく戦争継続は困難で天皇制存続を認めれば即座に降伏する」としていた。

軍部ですら日本への原爆投下は必要ない、と考えていたこと、また原爆決定をスターリンに通告したこと、原爆カードでソ連を封じ込めようと考えていたことなどを考慮すれば、「日本が戦争継続をすることで米軍の犠牲者20万人を救った」ことではなく、軍事的優位性をソ連に対して突きつけたというところだろう。

 

国税の20%にあたる20億ドルをつぎ込んだことの説明責任をとったともとれるが、核兵器の製造に成功したことでプロジェクトの成果は十分であっただろう。テニアン島に準備されていた原爆は12基で広島、長崎に続く都市への攻撃が予定されていたことからすれば、原爆投下によるホロコースト説も否定はできない。

 

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Photo: Nuclear Secrecy

 

(注2)グローヴスの信頼の厚かったオッペンハイマーですら、原爆投下後に核兵器の恐ろしさを実感し、有名な言葉を残したが、多くの科学者が投下に反対していたことを記しておきたい。

ウラン235の核反応を予言したボーア模型で知られる英国のニールス・ボーア。

アインシュタインにルーズベルト大統領宛の手紙で原爆製造への道を歩むきっかけとなったシラード。

コンプトン散乱で知られるシカゴ大学のアーサーコンプトン。

 

そのほか原爆の実証には人命の犠牲をともなわない無人島への投下で十分とした提言や投下前に通知して一般市民の犠牲を最小限にする提案など、消極的な原爆投下の反対意見も多かった。しかし全てはやがて訪れる冷戦を予知したかのように、政治的判断で投下が決定された。「軍の暴走」ではなくシビリアンコントロールのトップによる判断であったことを忘れてはならない。

せっかく同盟国である英国にまで核兵器製造に関する技術を秘密にしていたはずだが、ロスアラモス国立研究所に送り込んだ優秀な諜報員により、ほぼ全ての技術を流出させることになったのは皮肉である。その諜報員の主張は「核兵器を一国が独占することの危険性を回避した」というものだった。

 

 

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