毎年8月に思うこと2018〜予科練平和記念館

毎年、このコラムでは原爆が投下され終戦を迎えたことを忘れないように、思い出したくはないが忘れてはならない事柄について短い記事を書くのがいつの間にか慣習となった。

遅くなってしまったが、今年は筆者の住居から遠くないにも関わらずこれまで訪れる機会を逸してきた「予科練平和記念館」について書こうと思う。予科練とは(以下予科練平和記念館の資料から抜粋)

海軍飛行予科練習生」及びその制度の略称で、第一次世界大戦以降、航空機の需要が世界的に高まり、欧州列強に遅れまいとした旧海軍が、より若いうちから基礎訓練行って熟練の搭乗員を多く育てようと、昭和5年に教育を開始しました。

14才半から17才までの少年を全国から試験で選抜し、搭乗員としての基礎訓練をするもので、飛行予科練習生制度が始まってから、終戦までの15年間で約24万人が入隊し、うち約2万4千人が飛行練習生過程を経て戦地へ赴きました。なかには特別攻撃隊として出撃したものも多く、戦死者は8割の1万9千人にのぼりました。

 

航空機の重要性を世界に先駆けて認識し、大正5年(1916年)海軍で最初の航空隊「横須賀海軍航空隊」を発足し、現在の茨城県阿見町に「霞ヶ浦海軍航空隊」霞ヶ浦湖畔に「同水上班」を設置した。

若年から技術を習得させ熟練した航空機搭乗員の養成のため、昭和5年(1939年)に、「海軍飛行予科練習生」(通称:予科練生)制度を設け、「横須賀海軍航空隊」に「横須賀海軍航空隊予科練習部」が置かれた。同年には、73倍の狭き門を突破し第一期生が入隊した。後に「横須賀海軍航空隊予科練習部」は、予科練習生の増員等の理由により、昭和14年に「霞ケ浦海軍航空隊」に移転し「霞ケ浦海軍航空隊飛行予科練習部」の歴史が始まる。

 

霞ヶ浦に近い平和記念館には予科練生たちの訓練や生活の様子がわかる展示と遺留品が所狭しと並んでいて、どれも興味深い内容でしばし当時の状況を忍んで感慨深い時を過ごすことができた。

倍率73倍とあって文武に優れたやる気のある若者たちが集う訓練の毎日はさぞかし賑やかだったであろう。この展示で興味深いのは軍人の一員になれたことの喜びや将来への期待に加えて、やはり情緒豊かな青年のもつ不安や家族への気持ちが伝わる手紙によって、偽りのない個人の心情が溢れていることである。

 

例えば親に向けた手紙には合格の喜び、親への感謝についで訓練生活がいかに厳しいを報告したかと思えば、「10円の仕送りでお菓子を購買部で買って食べるのが唯一の楽しみ」という記述にはまだ少年の面影が残っていて共感する一面もある。また「自分は大福を食べたが、敵国の象徴であるビスケットを購入しなかった」という自慢は微笑ましい。

しかし「約2万4千人が飛行練習生過程を経て戦地へ赴きました。なかには特別攻撃隊として出撃したものも多く、戦死者は8割の1万9千人にのぼりました。」という事実は永遠に忘れてはならない。また昭和20年(1945年)8月に広島と長崎に投下された原爆で、無差別にそれぞれ14万人、7万人の犠牲者を出した。当時、この地域に「特攻の母」と呼ばれ、若い予科練生を叱咤激励して戦場に送り出した女性がいたという。国のためにとはいえ、意味のないことがわかりきった特攻に迷いがある少年兵に、「男ならやってみな」といってけしかけたこの女性は何者なのだろう。「特攻の母」は戦争犯罪者として記録にとどめるべきなのではないか。そういう女性は我が子でも平気で送り出しただろう。考えただけでも恐ろしいが、この事実を忘れ去ることはもっと恐ろしい。

 

平和記念館を出ると真夏の太陽が容赦なく照りつけている。当時の予科練生たちはこの暑さの中で訓練に明け暮れたのだ。8月が来るたびに彼らの尊い命が失われた過去を忘れないようにしたいと思った。

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