核拡散とNPTの歴史(第四回):核不拡散条約(NPT)と再検討会議

今年は5年ごとに開かれるNPT再検討会議(NPT Review Conference、運用検討会議)の年に当たり、4月27日から国連本部で開かれる。これからNPTと再検討会議が話題にのぼることも多いと思うので、NPTの成立と、過去の再検討会議を振り返ってみる。

 

NPTの起草

前回までに見たように、1950年代から原子力平和利用は急速に広まっていったが、技術を提供する国、主に核兵器保有国にとっては、技術供与に伴う核兵器転用の危惧を減らすための保障措置をいかに確立するのかが模索された時代でもあった。核兵器国の核兵器の削減、廃絶は遅々として進まなかった。 1962年のキューバ危機は核軍縮の必要性を世界に知らしめ、1963年の国連総会では核不拡散条約の起草が採択されたが、草案を巡っては、米ソの核軍縮の駆け引きの様相が強く、また、IAEAによる一元的国際保障措置に対するヨーロッパ諸国の反発は強く、1967年になっも草案は固まっていなかった。

IAEA保障措置

起稿するうえでの障害の一つは、各国の合意をえられる第3条(非核兵器国に対するIAEA保障措置)の表現であった。西ヨーロッパ諸国はユーロアトムによる保障措置を早期に確立し、西ヨーロッパ各国間や米国、カナダと原子力技術を移転するうえでの障壁は取り除かれていた。IAEAの保障措置を受けず、ユーロアトムによる保障措置が原子力技術移転の条件として、西側先進国の間では認知されていたといえる。ユーロアトム諸国はこの優位性を失うことに抵抗した。一方で、東ヨーロッパや東側の国々での核拡散はソ連の監視下に置かれて、核拡散が防止されていた。また、日本、インド、パキスタンなどを含むその他の国々は、原子力技術、核物資、核施設などを輸入するに会ったって、二国間の協定により、IAEAに保障措置を移管するための協定を締結する必要があった。こうした背景で、ユーロアトム保障措置の扱いをめぐり、多くの国の受け入れられる第3条の起草が難しかったわけである。

NPTの成立

1967年6月の中国の水爆実験に伴い、米ソが核不拡散、核軍縮必要性を再認識し、米ソのNPT草案に関する早期合意を加速する引き金となったのは皮肉である。1968年に入り、米ソ両国の草案が提出され、その討議が開始された。各国からの修正案を受け、同年4月の国連総会で本格的議論が行われた。第3条は、非核兵器国がIAEAとの保障措置協定を定めるという表現で合意された。非核兵器国の要請により、核兵器国の核軍縮の履行を確認するための5年ごとの再検討会議の開催、条約の有効期限を25年とすることが定められた。同年6月12日、国連総会はNPT推奨決議を賛成多数(95か国)で採択し、同年7月1日NPTはワシントン、モスクワ、ロンドンで署名が開始された。NPT推奨決議には多くのアフリカ諸国が棄権、反対の立場をとったことが注目される。7月1日におこなわれた調印式では米英ソと59の非核兵器国が署名した。日本、ユーラトム諸国は調印式の不参加であった。1970年2月までに40か国が批准しNPTが発効した。

日本の対応

日本は当初からユーロアトムの保障措置により、西欧諸国の原子力利用における優位性をもっており、IAEA保障措置により日本が不利にならないかを懸念していた。当時のキャッチフレーズは「ユーロアトムなみ保障措置を!」であった。ユーロアトム諸国の署名の遅れに影響され、日本は様子を見つつ、西欧諸国の署名(1969年11月)を待って、NPTの発効した1970年3月の直前である同年2月に署名した。政治的に成立後の署名、加盟を避けたというのも理由と思われる。日本の批准はベルギー、イタリア、ドイツの批准(1975年5月)の後の1976年6月であり、IAEAとの保障措置協定の締結は1977年3月であった。

NPT未加盟国

NPTが発効した時点で条約に未加盟であったいくつかの国々のその後の動向を簡単にみておく。

北朝鮮(1985年10月に加盟、2003年1月に脱退、IAEA保障措置協定1992年5月に締結)
フランス(1992年8月に加盟)
中国(1992年3月に加盟)
アルゼンチン(1995年2月に加盟)
南アフリカ共和国(1991年7月に加盟、1970-80年代に核兵器保有、1991年までに解体)
ブラジル(1998年9月に加盟)
チリ(1995年5月に加盟)
キューバ(2002年11月に加盟)
イスラエル(未加盟、核兵器保有が確実といわれている)
インド(未加盟、1974年核実験に成功)
パキスタン(未加盟、1998年に核実験に成功)

NPT再検討会議の歴史

第1回(1975年)http://cns.miis.edu/inventory/pdfs/NPTRevCon75.pdf :インドの核実験(1974年)があったものの、NPTが発効して最初の再検討会議だからというわけではないだろうが、肯定的な最終宣言が採択された。第1条と第2条(核兵器またはその技術の移譲)はすべての加盟国に遵守されており、第3条(保障措置)に基くIAEAの検認は国家固有の権利を侵害することなく、経済、科学、技術の発展を妨げていないので継続することが必要であると評価した。第6条(核兵器競争の停止、核軍縮、国際規制)については重大な懸念ありと触れるにとどめている。

第2回(1980年):前回とは異なり最終宣言は採択されなかった。核軍縮、特にCTBTの批准の遅れへの危惧、非核兵器国への原子力平和利用への輸出規制への不満と技術援助に関する意見の不一致などが理由であった。

第3回(1985年)http://cns.miis.edu/inventory/pdfs/NPTRevCon85.pdf :最終宣言の採択に向け、準備会合で小委員会での討議により、地域、グループなどの意見の調整を行われたといわれている。核開発競争、核軍縮、CTBTを巡っては、前回1980年同様の難しい状況の下での会議であった。第1条と第2条についてはその重要性を強調し、第3条についてはIAEA保障措置の普遍性を強調するなど、先進国、開発途上国ともに受け入れられる表現を求めた努力のあとがみられる。いくつかの開発途上国が、保障措置のかけられていないイスラエル、南アフリカ共和国の核施設の問題を提起したが、合意までの十分な議論が尽くされなかったようである。1990年には南アの核兵器が解体されたかと思えば、また、イスラエルの核保有は確実と考えられていることから、これら国の意見が地味にではあるが、この文書の最後にNPTの普遍性の記述に反映されたのかもしれない。この文書の採択を巡っては投票にすべきとの意見もあったが、最終的に合意文書とした外交努力が評価される。当時を回想すると、個人的には、この文書がラテンアメリカ及びカリブ核兵器禁止条約(Treaty of Tlatelolco、1967年)と南太平洋非核地帯条約(Treaty of Rarotonga、1985年)に触れ、Nuclea (Weapons) Free Zone を推奨しているのが斬新であり、NPT未加盟の南アメリカの国々(ブラジル、アルゼンチン、チリなど)がTlatelolco条約に加盟し、核兵器廃絶に肯定的でありつつもNPTに加盟しなかったことを改めて認識するに至った。今日では、東南アジア非核兵器地帯条約(バンコク条約、1995年)、アフリカ非核兵器地帯条約(ペリンダバ条約、1996年)、中央アジア非核兵器地帯条約(セメイ条約、2006年)なども締結され、中東(Middle East)の非核地帯への努力が進められている。

第4回(1990年):ソ連でペレストロイカが進行中で、東西冷戦の緩和の感じられる中で開かれた再検討会議である。核兵器削減、CTBTの遅れに対する非核兵器国、とくに非同盟諸国の不満は前回同様に根強く難しい状況が続いていた。原子力平和利用の促進も争点となった。輸出規制が強化される状況で、IAEA保障措置が原子力技術移転の十分な条件か否かを巡り各国の意見は分かれた。先進国は特別査察、IAEAへの国家機密、諜報情報の提供などを含むIAEAの保障措置強化の必要性を強調した。イラクの核兵器開発とそれを支えるパキスタンのA.Q.Khanのウラン濃縮技術の地下拡散網も議論されたといわれている。ある意味では、1990年8月のイラクのクウェート侵攻に先立ち、こうした諜報情報が共有されたことに意義があったと思う。北朝鮮のNPT加盟の委託が1985年に行われたにもかかわらず、この再検討会議の時点でIAEAとの保障措置協定が合意に至っていないことも議論されたと思われるが、IAEAと北朝鮮の交渉への影響を考え、強調されなかったのであろう。CTBT、核軍縮を巡り各国の合意は難しく、この再検討会議では最終合意文書は採択されなかった。

第5回(1995年):NPTは25年の期限付きの条約として1970年に発効した。この再検討および延長会議の主要議題の一つはNPTの延長であった。NPTの運用の評価を巡っては各国の合意に至らなかった。しかし、評決なしで (1) 条約の再検討プロセスの強化 (2) 核不拡散と核軍縮に関する原則と目標、および (3) 条約の無期限延長が決定され、中東に関する決議が採択された。イラクにおける核兵器計画に対するNPTの効果、北朝鮮での査察活動、またCTBTの早期成立への期待などが核軍縮、平和利用の遅れなどへの不満がありつつも3点の合意と決議が採択された意義は大きかった。

第6回(2000年)http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaku/npt/saisyu.html: 条約履行状況の検討に関して最終文書が採択され、核不拡散と核軍縮、原子力の安全性と平和的利用に関する多くの問題でも行動計画として最終文書が合意された。1998年のインド、パキスタンの核実験などがありつつも、1996年のCTBT設立、東西冷戦の終焉などの影響で、NPTへの期待の高まりがあったと思われる。

第7回(2005年):2001年の9.11テロに始まり、イラン、リビアの核開発疑惑、北朝鮮のNPT脱退, 第2次湾岸戦争など国際情勢の緊張が高まり、この会議への期待は低く、前回のレベルの合意は困難と思われていた。議論が核心に触れることなく、いかに会議を運営するかに時間を割かれたことといわれ、最終合意には至らなかった。米国ブッシュ政権の強硬な姿勢も一因であろう。

第8回(2010年) http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaku/npt/kaigi10_gh.html http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaku/npt/kaigi10_keikaku.html  http://www.un.org/ga/search/view_doc.asp?symbol=NPT/CONF.2010/50%20%28VOL.I%29 :前回最終合意を得られなかった経験を踏まえ、準備委員会で周到な準備が進められた。とくに、会議手続きが準備委員会で合意されたことで、2010年本会議では、内容のある議論が進み、条約の運用に関する評価と行動計画の両方について最終合意文書が合意された。詳細は先に示した外務省のサイトに詳しい。米国でオバマ民主党政権が誕生したことが影響したと思う。中東を大量殺戮兵器のない地帯とための会議が2012年に向け準備されることが合意されたが進展が遅れている。

最後に

前回の再検討会議以後の世界情勢は大きく変わっている。特に中東情勢は混迷を深めている。非核地帯を巡る中東会議に実現か難しいばかりでなく、イランとの交渉は難航しており、シリアの内戦、イスラム国など問題にあふれている。北朝鮮の核開発はプルトニウムから高濃縮ウランにシフトしており、日中韓の軋轢も無視できない。クリミア独立、東ウクライナでの内戦は冷戦の再来とまで言われている。2015年再検討会議に向けては2012年から毎年準備委員会が開かれ準備が進められてきている。最終宣言を採択できた1985年、2000年、2010年の再検討会議の経験からは、本会議での内容のある討論を実現するには、準備委員会で再検討会議の手続きや本会議への勧告案(最終宣言の草稿)などの周到な準備することが不可欠である。2014年4月の準備委員会では議長の提案した本会議での勧告案は合意に至らなかったのが気がかりである。2010年の最終文書の行動計画の実施、達成状況が客観的建設的に議論され、評価され、最終宣言が採択されることを期待している。

 

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