核拡散とNPTの歴史(第三回):原子力技術の広がりと核不拡散

 IAEAが設立された1950年代、世界は東西冷戦の強まる中で、原子力技術は各国に広まっていった。スウェーデン、ノルウェーなどは、独自の原子力開発を進めた。Atoms for peace 演説の後、米国、ソ連は多くの同盟国に原子力技術の供与を開始し、同盟関係の強化に努めた。また、マンハッタン計画に参加したカナダは、第二次大戦終了とともに天然ウランを燃料とする独自の発電用重水炉(CANDU) を開発し、インド、パキスタンなどへ輸出した。インドの原爆実験、パキスタンのNPTへの不参加などにより1970年代初めまでに協力を停止、縮小した。この記事ではいくつかの国の1950年代から1970年代にいたる原子力の状況を紹介し、原子力技術の広範な国への広がりが核不拡散条約(NPT)の交渉、原子力技術移転、IAEAの保障措置のどのような影響を及ぼしたのかを見ていく。

核不拡散への対応(1950-70年代)

1950年代半ばから米国、カナダ、ソ連、英国などが原子力技術の輸出を開始した。平和利用のために提供された核物質、核技術、機材(たとえば、原子炉を構成する機器、構造物など)、物質(たとえば重水、黒鉛など)は核兵器開発、製造に利用してはならないという条件が、輸出国と輸入国の二国間協定で約束されていた。協定では保障措置、査察などを取り決めることになっておりIAEAに保障措置の実施が委ねられることもあった(二国間協定に基く保障措置)が、NPTが発効するまでは、西欧の多くの国ではEuratom の保障措置、東欧ではソ連による監視、締め付けで核拡散は封じられていたといえる。筆者の理解では、この時代にはEuratom以外の国が自国で開発した原子力施設で、自国産の核燃料、重水、黒鉛などを利用する限りには国際的保障措置の対象とならなかった。

いくつかの国の原子力活動

ノルウェー:1946年、原子力平和利用を目指す研究を開始し、オランダと共同で1951年にはKjellerにJEEP-1炉(筆者の記憶では黒鉛減速重水炉、1MWth?)を建設し、臨界を達成した。ノルウェーが重水を、オランダがウランを提供した。米国、ソ連、カナダ、英国、フランス以外では最初の原子炉であった。この炉で作られるプルトニウムの再処理の研究も行われた。この後ノルウェーはOECDのHalden 炉(入水減速BWR)を誘致し各国との共同研究開発を行う政策に転換した。

スウェーデン:第二次大戦の終了とともに地理的にソ連に近いスウェーデンは中立政策を採るとともに、独自の防衛政策の一環として、軍部指導の核兵器開発計画が始められた。重水減速、天然ウラン燃料の研究炉R1をStockholm の王宮の地下に建設し、1964年にはStockholm郊外の岩盤中に動力炉Ågesta(PHWR、68 MWth)を建設し、1974年まで運転し、地域暖房、発電に用いた。1960年代後半、スウェーデンは核不拡散政策へと転換し、核兵器開発計画は収束された。余談であるが、筆者は1980年代に原子力研究の中心となったStudsvikの研究所を訪れたが、市販の地図に研究所への道がないのに驚いた。機密計画時代の名残であろう。

スイス:1950年代には核兵器計画を持ち、米国の協力を受け、重水炉Drorit (30MWth)で生産されるプルトニウムの利用を目指した。NPTの受け入れとともに核兵器計画は中止された。

西欧圏:ベルギーは第二次大戦前からラジウム鉱山でのウラン採鉱を開始しており、マンハッタン計画へウランを提供した。その見返りというわけではないだろうが米国の協力を受け1956年には黒鉛炉(4MWth)の運転を開始し、50年代終わりには動力炉(PWR)の建設が進められ、西ドイツとともに非核兵器国として原子力平和利用の先頭に立った。西欧圏では平和利用の研究開発が進められる一方で、地理的に隣接する国の核兵器開発は気になるが、自らの核拡散を防ぐための他国からの監視、干渉(ie. 保障措置)の受け入れは最小限にしたい、核兵器開発の技術を取得しておかないと不利であるなどの様々な思惑があったと思われる。1957年には経済分野での統合とエネルギー分野での共同管理を進展させるべくローマ条約が締結され、欧州経済共同体(EEC)と欧州原子力共同体(Euratom、ユーラトム)の設立に至った。Euratomは加盟国の原子力活動(英、仏の核兵器国での平和目的の原子力活動を含む)に対する独自の保障措置、査察システムを持つことが規定されており、後日、国際機関(ie. IAEA)による保障措置、査察を二義的なものとして受け入れる背景が作られた。当時IAEAは生まれたばかりで国際的な保障措置システムの誕生は1960年代半ばまで待たねばならず、また、NPTの下での標準化された包括的保障措置は1970年代になって始められた。こうした状況を考えると、Euratom の保障措置、査察システムは西欧の先進国同士内での相互監視という弱点があるが、隣の国が核兵器を開発していないことが保証できたことにより、加盟国間での技術協力、技術移転が促進され、多くの動力炉が短期間に建設され、1960年代半ばまでに西欧に原子力発電が急速に普及した。1970年代にNPTの包括的保障措置を始めるにあたり、Euratom内で既に効果的に運営されていたEuratom保障措置とIAEAの包括的保障措置の重複を避けるべく、かつ保障措置を効率的効果的に実施するため、IAEAの査察を最小限にとどめたいというEuratomとの交渉はIAEAにとって困難なものであった。

東欧圏:1950年代半ばには、東ドイツ、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリアなどの社会主義国へはソ連製の研究炉(WWER/IRT)が供給され、各国で原子力研究、放射性同位体の製造などが開始された。照射燃料はソ連への返還が求められ、ソ連の監視下で核兵器への転用,核兵器開発などの懸念は少なかったと思われる。このためソ連は同盟国に対する国際保障措置、査察に消極的と見られた時期もあったが、1979年代にNPTの下でのIAEAによる保障措置を、東欧諸国はすみやかに受け入れていった。

インド、パキスタン:1950-60年代に両国ともカナダからCANDU をの供給を受け、米国、英国からの協力も受けたが、インドによるCANDU技術の核兵器開発への転用、パキスタンのNPTへの未加盟などの利用により、1970年代からは協力が停止された。両国が核兵器開発を達成した主な理由としては、1950-60年代における二国間協定による査察体制の脆弱性、また両国がNPTを批准しておらず、国際保障措置、査察体制の適用されない原子力分野が多かったことが理由と思われる。両国とも核実験を行い、今日までNPTに未加盟である。

中東、アフリカ、アジア:イラクへはソ連が研究炉を供給し、イラン、トルコ、エジプト、コンゴ、台湾、韓国などの国々へは米国が研究炉を提供した。多くの国が原子力時代の到来を夢見ていたある意味では幸せな時代だった。台湾、韓国では原子力発電の実用化に向ったが、こうした研究用原子炉は国の科学技術の象徴とみられるだけという場合も多かった。これらの国々では、1950-60年代には核兵器開発への疑惑が生じなかったが、70年代以降いくつかの国で核兵器開発への疑惑が生じた。台湾に対し、米国は59年にトリガー方研究炉を供給した。これは盟友としての台湾に便宜を図ったものであり、原子力発電の利用を推進する基礎となった。しかし、一方で核不拡散条約を批准した後の70年代には台湾は、カナダから重水炉TRR (40MWth) を導入し、また、フランスからの再処理技術の導入も計画した。これらにより核兵器開発の疑惑が持たれ、重水炉の運転と再処理の導入は中止された。中国に対峙する状況で、技術援助が核兵器計画へと発展していったと思われるケースである。また80年代以降にイラン、イラク、リビアなどがオイルマネーを背景にNPT加盟国であるにもかかわらず核開発計画を開始した。

日本:1955年に日本原子力研究開発機構(JAEA)の前進である日本原子力研究所(JAERI、原研) が設立され、原子力への期待が高まる中、原研での研究開発は急速にすすめられた。日本最初の研究炉であるJRR-1は米国から供給され(臨界、1957年、50kW )、日米共同開発のJRR-2(臨界、1960年、10MWth、重水炉)、日本最初の国産炉のJRR-3 (臨界、1962年、10MWth、重水炉)、JPDRによる最初の原子力発電(1963年、45MWth、BWR)、JRR-4(臨界、1965年、2.5MWth、スイミングプールタイプ)、高速炉用臨界実験装置FCA(臨界、1967年)、JMTR(臨界、1968年、50MW、スイミングプール タンク型原子炉、材料試験炉)と研究開発に不可欠な施設が続々と建設された。一方で、英国からはコルダーホール型とよばれる黒鉛減速ガス冷却炉が輸入され、東海一号炉(585MWth)として、1960年に建設が開始され、65年には臨界を達成した。1950年代から60年代は日本の原子力の創世記であり、黄金時代であったといえよう。原子力導入のはじめからエネルギー源としての高速増殖炉を目指すという政治家の主張により、原子力の振興は財政的、政治的に優遇されていた。こうした日本の原子力開発が海外の目にどのように移っていたのかは興味深い。日本の場合は、増殖炉、プルトニウム利用を目指す国策がプルトニウム核兵器開発の隠れ蓑と詮索されても不思議が無かったと思う。またFCAの燃料である大量のプルトニウム、高濃縮ウランが供給されたのも後日の米国の核不拡散政策との関係が不鮮明である。NPTの下での包括的保障措置が適用される1977年まで二国間協定に基く保障措置の下に再処理施設を含む原子力開発が進められていった。こうした背景を受けて、1960-70年代には日本への国際保障措置の適用が核兵器国のみならず多くの国の関心であったことは自然だった。NPT批准後、日本はEuratomに比べ不利にならぬようにと「Euratom並みの保障措置協定」を目標にIAEAとの交渉に挑むことになったが、国際社会の目は厳しいものであった。

まとめ

1950年代初頭にノルウェー、スウェーデンなどが重水炉の独自開発を進め、再処理技術などを取得し、スウェーデンは独自の動力炉を運転した。多くの西欧諸国、日本、インド、パキスタンなどは重水炉の導入から短い間に、独自の研究開発の基盤を構築したことからみても、プルトニウム利用の核兵器開発は当時の工業国を初めとする国々にとって困難なものではないことが理解されよう。プルトニウム利用の核兵器開発は昔も今も核拡散の弱点である。

西欧の国々は地域内での核拡散を相互に監視し、防止するとともに、平和目的の原子力技術の地域内での移転を促進すべく、Euratom を設立した。これに伴い、西欧各国への技術移転が進み、原子力発電が急速に広まったことは、冷戦下で西側の優位性を示す上で重要であった。

1950-60年代には原子力先進国である工業国による核拡散が保障措置の対象と考えられていた。こうした国の多くはプルトニウム生産に役立つ重水減速黒鉛炉を導入し、時には公然と、時にはいろいろな理由を付けて、プルトニウム利用の核兵器開発の技術取得から取り残されないように原子力開発を開始した。当時はウラン濃縮は技術的、経済的に困難であった。

この時代、Euratom保障措置が域内の核不拡散に対しては効果的であり、東欧諸国の核不拡散に対してはソ連の監視が行き届いていた。これに対して、日本、インド、パキスタンを含むそのほかの国は原子力技術、物質、施設を供給する国との二国間協定に基き、IAEAの保障措置を受けいれることになっていた。日本は早い時期からIAEAに技術情報を提供し、保障措置を明文化することにより、日本の核開発に対する各国の危惧を払拭する政策を採った。しかし、西欧、東欧の工業国が集団として核不拡散の保証を得ていたのに比べ、中立国ではなく、単独に核不拡散の保証を取り付けなければならない日本は難しい立場にあった。インド、パキスタンはカナダから重水炉、天然ウラン、重水、を輸入したが、その技術を核兵器開発に利用した。一説には二国間協定のあいまいさにより核開発への転用が許されたともいわっれている。いずれにせよ重水炉建設から原爆開発までの距離が小さいことが理解されるであろう。

1970年代以降、NPT の批准が進み、先進国による核拡散に対する保障措置は効果を挙げている一方で、NPT未加盟のインド、パキスタンの核実験や、NPT批准後も核開発を行ったイラン、イラク、北朝鮮、リビアなどでの核拡散へと焦点が移っている点が注目される。核拡散の形態もプルトニウム経路に限らず、ウラン濃縮が広く利用されるようになっている。

最後に

この原稿では日本の原子力開発の詳細に触れなかったが、1950-70年代の日本の原子力政策について当時の経験を知る方のお話を記録しておくことが重要と思う。何故、短期のうちに研究炉導入から動力炉開発までを成し遂げられたのか、増殖炉政策導入の動機はエネルギー資源の貧困だけなのか、裏に核兵器開発の意図は無かったのか、二国間協定による保障措置のためのIAEAとの交渉の経緯(1960年代)、NPTの包括的保障措置の交渉の経緯(1970年代)などについて知りたいと思う。この記事を機会に実務に携わった方々の声を聞くことができればと思っている。

この投稿では、北朝鮮、イスラエル、ブラジル、アルゼンチン、南アフリカなど核拡散上興味深い国については省いた。機会を改めて紹介したい。

核拡散とNPTの歴史(第四回):核不拡散条約(NPT)と再検討会議

 

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コメント  

 
# 高橋啓三 2015年01月28日 17:49
Michioさんの核不拡散の歴史のまとめ、分かり易いです。
核不拡散は国際政治の核心部分ですね。
米ソ英仏中の国連の5常任理事国のみに核兵器保有を認めるNPT体制が出来たものの、インドの核実験、イスラエルの実質的核保有、南ア核保有、パキスタン核実験、北朝鮮核実験。
現在はイランのウラン濃縮が焦点ですね。
NPT体制は核兵器保有国が限りなく増えるのを阻止したが、国家が核兵器を必至で保有したいとの願望は現実には防げなかったですね。
今後は核兵器の数を減らすという地道な努力が必要ですね。
 
 
# Tetsuya 2015年01月20日 16:03
いつも興味ある記事を拝見させて いただいております。非核拡散の 努力がなかったら今より遥かに恐 ろしい核汚染となっていたでしょ う。最も重要な点は核利用の肯定 論者も否定論者も等しく、半永久 的に核汚染処理の十字架を背負っ ている、ということでしょう。脱 原発側も原発容認の側も、拡散を どう力を合わせて処理していくか 、ということでしょうか。やはり 歴史の正しい評価がなされれ、そ れらを知ってもらう工夫が必要だ と思いました。
 
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