核拡散とNPTの歴史(第二回):国際原子力機関(IAEA)の設立

今回は1953年12月8日に米国のドワイト・D・アイゼンハワー大統領が1953年12月の国際連合総会で行った「平和のための原子力(Atoms for Peace)」として知られる演説の頃から国際原子力機関(IAEA)設立への経緯を考えてみる。

arrow 核拡散とNPTの歴史(第一回):核拡散の始まり

この時代は米、英、ソの常任理事国が核兵器開発を進めたばかりでなく、後発のフランス、中国も核兵器開発政策を開始した時代である。今では語られることも少ないが、スウェーデン、ノルウェー、オランダ、スイス等の西欧の国々もプルトニウム生産炉の開発を進め、独自の核兵器保有への可能性を模索していた時代である。スエズ動乱を機に、フランスがイスラエルの核開発への支援を開始したのもこの頃である。ヨーロッパは復興の途上で、ドイツは東西に分裂し、オーストリアも連合軍の管理下に置かれ、東欧の諸国は社会主義国に組み込まれていった。

本稿の末尾に核実験に関連する出来事を年表にまとめたので参考にしていただければ幸いである。本文中では年月をできるだけ省くようにした。

米ソの核兵器開発競争

1952-55年は核拡散の歴史にとって多くの出来事のあった年といえよう。英国が核兵器保有国となり、米国が水爆実験に成功し、スターリンが亡くなり、朝鮮戦争が休戦し、1953年8月にソ連が水爆実験に成功したと信じられていたとき、バーミュダで会談した米、英、仏はソ連の力が強まっていることを危惧する理由が十分になったと思われる。ソ連に対する核兵器開発の優位が危ういという状況でAtoms for Peaceと国際的原子力機関の創設が論じられたのであろう。核兵器を独占することが将来困難になることを見越してAtoms for Peace政策が提案されたと思う。

Atoms for Peace演説

アイゼンハワー大統領の演説の概要は次のようにまとめられる。

「1945年に米国が核兵器を保有したが、技術は同盟国である英国、カナダだけではなく、ソ連も保有するに至っている。核攻撃が起きれば米国は迅速かつ断固として対応できるが、こうした独占はいつまでも続ものでなく、核兵器の使用は荒廃を招き、強大な兵器を持てば勝てるというものではない。核兵器の更なる拡散を防ぎつつ、核エネルギーを人類の平和の目的に利用することを目指し、国際的原子力機関を設置することを提案する。その機関に世界的査察・管理体制を構築し、核兵器国の備蓄した核分裂物質のうち余剰なものを、平和の目的に利用することを目指し、この機関に保管・貯蔵・防護を行う責務を持たせることも考えられる。」

何となくいいとこずくめの提案のように見えるが、「ソ連が正当に所有するものを放棄するよう同国に求めることはない」また「関係国政府は、慎重な考慮に基づき、許容される範囲内で、標準ウランならびに核分裂物質の各国の備蓄から国際的な原子力機関に対して、それぞれ供出を行い」と述べていることにも見られるように、既に開発された核兵器の削減を各国に求めるものではなく、余剰核分裂物質等の国際機関への供出を義務化するものではないなどの点に注意する必要がある。

この提案は原子力平和利用を望む国々から広範な支持を集めたが、ソ連は自らの提案する核兵器の即時廃棄を優先的に検討するよう要求した。

米国では、1954年にこのAtoms for Peaceの具体化に向けて、原子力技術移転を事実上禁止するマクマホン法に替わり、原子力法(Atomic Energy Act)が成立し、平和利用のための技術供与をできる体制が整えられた。議会では、供与する核物質などの管理権を国際機関に委ねず、米国が直接に保障(safeguards)する方が効果的であるとの意見も強く、国際機関を核物質の貯蔵庫(pool)、銀行(bank)の権限を与えるとの構想は修正を迫られ、国際機関が原子力技術、核物質などの移転、供与を促し(brokering )、それを許可(clearing)するなどの考えも検討された。

国際原子力機関(IAEA)の誕生

1954年には新しい国際原子力機関の憲章(IAEA憲章)の起草が開始され、その年の国連総会では「平和的原子力」を期待する各国の希望に応え、1955年8月に最初のジュネーブ会議を開催し、平和的原子力を国際的に話し合う場が設定することが決まった。ジュネーブ会議には1000人を超す科学者、技術者を含む多数が参加し、原子力発電をはじめとする原子力平和利用に向けての一大祭典となった。

このジュネーブ会議の数週間前にソ連はIAEA憲章の検討に加わることを決定し、世界の全核兵器の即時廃棄を唱える政策を変更した。推測であるが、その年の11月に水爆実験に成功していることから見て、米国に匹敵する技術力、破壊力を獲得する見通しが立ったことがその背景かもしれないし、世界の趨勢を見て変更したのかもしれない。

IAEA憲章の草稿は英国が準備し、1955年初めには、八カ国国(米国、英国、フランス、オーストラリア、南アフリカ、ベルギー、ポルトガル)で憲章の協議が始まめられた。

先に述べたソ連の政策変更を受けて、ジュネーブ会議の後には米国、ソ連、英国、フランス、カナダ、チェコスロバキアの六カ国で原子力技術の核兵器への転用を防ぐための保障措置システムの技術的問題の入念な検討が行われた。この時点では米ソ両国とも保障措置システムの全容をはっきりと描いたわけではないだろうが、ジュネーブ会議で示された多くの国の平和的原子力への期待を見て、自ら供給する原子力技術の核兵器の開発への転用を現実の危険として認識し、保障措置システムを国際機関に全面的にゆだねることへのためらいが深まったと思われる。

1956年2月にはソ連、チェコスロバキア、ブラジル、インドが憲章の検討に加わり、同年4月に現在の国際原子力機関(IAEA)憲章とほぼ同じ文面で合意し、10月の国連総会で承認され、各国の署名、批准が開始された。この直後にスエズ動乱が勃発し、イスラエルの安全保障を危惧したフランスが核兵器開発への協力を開始することになったのは皮肉である。

憲章の詳細には触れないが、保障措置に関しては、「IAEAが関与する原子力支援や供給品が軍事目的に利用されないための保障措置を確立し適用する、そして、二国間、多国間協定に求められる場合には、こうした保障措置を適用しなければいけない (憲章III.A.6)」と定められた。加盟国の取り決めに従い、その要請に応えIAEAが保障措置を適用するという構図で、IAEAの技術的関与について憲章はかなり詳しく定めている(憲章XII.A.1-6)。

1957年7月、IAEA憲章が26カ国に批准をもって発効し、IAEAが誕生した。

個人的回想

1950年代半ばというと、筆者が小学校に入ったころで、筆者の個人的な記憶をたどると、原子力、放射能関係の事件が浮かび上がってくる。当時はラジオ、新聞がニュース源で、「ノバヤゼムリア」「クリスマス島」「放射能雨」「子供は外で遊ぶな」「雨にぬれると頭がはげる」など核実験後のフォールアウトに関する言葉が繰り返され、「第五福竜丸」事件の恐ろしさは繰り返し伝えられた。明るいほうでは「日本最初の原子炉」(JRR-1, 東海村)などもあった。いずれにせよ原子力の輝ける時代だったし、いわゆる発展途上国も明るい未来に燃えていた時代だったと思う。

 

核兵器開発の略歴

1945年7月:   米国、ニューメキシコ州アラモゴードで原爆実験に成功。
1945年8月:   米国、広島、長崎に原子爆弾投下。
1946年8月:   米国、マクマホン法の成立。原子力技術の国外移転が禁止される。これに伴い、英国、独自の原爆開発計画を開始.
1949年8月:   ソ連、セミパラチンスク核実験場で原爆実験に成功.
1950年 6月:  朝鮮戦争始まる。
1952年10月:  英国、オーストラリアのモンテベロ島で原爆実験に成功。
1952年11月:  米国、マーシャル諸島エニウェトク環礁で水爆実験に成功。
1953年3 月:  ソ連、スターリン死去.
1953年 7月:   朝鮮戦争休戦。
1953年8月:   ソ連、セミパラチンスク核実験場での核実験。西側では水爆実験成功と考えられた。
1953年9月:   米、英、仏、バーミュダで会談。
1953年12月:  アイゼンハワー大統領のAtoms for Peace演説。
1954年3月:   米国、マーシャル諸島ビキニ環礁で水爆実験。第五福竜丸船員、マーシャル諸島住民の被曝。
1954年10月:  中国、ソ連からの技術供与を取り付ける。
1955年1月:    中国、独自の核兵器の開発を宣言。
1955年8月:   第一回ジュネーブ会議。
1955年11月:  ソ連、セミパラチンスク核実験場で水爆実験に成功。
1956年10月:  IAEA憲章の署名、批准が開始。スエズ動乱始まる。
1957年5月:    英国、クリスマス島で水爆実験に成功。
1957年7月:   IAEA憲章が26カ国の批准され発効し、IAEAが誕生。
1960年2月:    仏、サハラ砂漠レガーヌ実験場で原爆実験に成功。
1962年11月:  インド、中印国境紛争。戦後、核開発を開始。
1964年10月:  中国、西部地区で原爆実験に成功。
1964年6月:   中国、水爆実験に成功。
1968年8月:   仏、仏領ポリネシアで水爆実験に成功。
1974年5月:  インド、ポカラン砂漠で原爆実験に成功.
1998年5月:  インド、ポカラン砂漠で水爆実験に成功.
1998年5月:  パキスタン、チャガイで原爆実験に成功.
2006年10月: 北朝鮮、咸鏡北道吉州郡豊渓里で原爆実験に成功

核拡散とNPTの歴史(第三回):原子力技術の広がりと核不拡散

 

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