核拡散とNPTの歴史(第一回):核拡散の始まり

編集者から「核拡散とNPTの歴史に関して、歴史を整理して伝えることは我々の世代の責務のように思えます」と励まされ、これから何回になるかは分からないが、順次核拡散とNPTの歴史を振り返ってみたいと思う。第一回としては核兵器開発の進められたマンハッタン計画の開始時から既に始まっていた核拡散の実情を考える。1953年12月の米国大統領アイゼンハウアー大統領の「平和のための原子力(Atoms For Peace)」演説の前までを見ていく。

 

核兵器開発の始まり: マンハッタン計画

マンハッタン計画(以後MPと書く)自体については優れた著作が多く、改めて紹介するまでもないが、核拡散の視点から考えてみた。MPは1939年にシラードとアインシュタインが米国政府に核兵器開発を示唆した手紙が始まりといわれている。当時、ナチスドイツ(そして日本?)が核兵器開発計画を進めているとの不安をいだいた米国政府が、日本との開戦を受けて、MPを本格的に加速した。MPには米国、英国、カナダが参加した。多くの国から移住した多数の科学者、技術者が貢献したが、とくにヨーロッパにおけるファシズムと反ユダヤ主義に不安を覚え、米国へ亡命したユダヤ系科学者の寄与が大きかった。

MPは1945年に原爆を完成させ、所期の目的を遂げた。成功の要因は多々あると思うが、ここでは次の点を指摘したい。ひとつはMPが米国政府から強い支援を受け、おおむね指導者に大きな自由度、決定権が与えられたこと。ふたつ目は、構成員の多くは反ファシズムに向けての正義の計画であるとの共通の目的を持っていたことである。道徳観では受けいれるのが難しい大量殺戮兵器の開発を効果的に進めるために、こうした確固とした組織運営と共通の目的にまとめられた人材、チームワークが、不可欠であったと思う。

 

現代の核拡散

MPはできるかできないかわからない核兵器の開発への挑戦であったが、MP以後の核拡散、特に現代の核拡散は事情が異なる。既に試された科学的、技術的知見を応用し、プロジェクトを効率よく進めることができれば、MPに比べ核兵器開発製造がきわめて容易に達成できるからだ。そのためには、MPに見られる、政府の強い決意、科学者に与えられた権限、構成員に共有された目的意識などを評価することは、現代の核拡散を考える際の重要な観点だと思う。

これからの一連の投稿でMP開始後の核拡散の話題を拾ってゆく。この最初の投稿では、MPの開始から、原爆の完成、終戦、米国とソ連の原水爆開発競争の激化、スターリンがの死、朝鮮戦争の停戦など、東西冷戦の時代を扱い、1953年12月8日の米国大統領アイゼンハウアー大統領の「平和のための原子力(Atoms For Peace)」演説の前までを見ていく。

 

MPの国際性

MPは米国が主導し、英国、カナダとのプロジェクトであり、戦場となる恐れのある英国からはなれた北米に研究者を集めて進められた。米国から近いカナダのモントリオール、チョークリバーに核施設が作られた。MPの知見、成果は3カ国で共有されたわけであるが、実際の核兵器を手にしたのは米国であり、英国、カナダはさしあったって、核兵器を必要とせず、財政的ゆとりも無かったので、第二次大戦の終了の時点では、核兵器開発の知識の一部を共有するにとどめていた。

集められた科学者は多く国籍からなる。戦渦を避けた英国からの移住者、ファシズムと反ユダヤ主義に不安を覚えたヨーロッパ各国からの避難者、カナダではフランス系、スラブ系の人々も多かったと思われる。

当然のことではあるが、MPを進める上では固い秘密保持が実践されたが、多国籍からなる構成員は「戦争を終わらせるための計画」という点での一致はあるものの、思想的、民族的背景は入り組んでおり、ソ連、ドイツを含むヨーロッパ各国への情報の流出はMPの初期から存在したといわれている。

 

ソ連への情報漏洩

ソ連、共産主義に共感を持つ者による自発的なソ連への情報提供も知られている。ソ連では1940年ごろにはクルチャートフが原爆開発の研究を進めており、MPの情報を集め、分析し、利用していた。スターリンが日本への原爆投下の報告に驚きを見せなかったなどの記述も見られ、米国の原爆開発はソ連側の知るところであったといわれている。MPからの断片的な情報が、ソ連の核開発研究の進行を早めたことは疑いが無い。こうした意味では核拡散はMPの開始とともにが始まっていたといえる。

 

ドイツの核兵器開発

先に、ドイツの核兵器開発計画の存在がMPを決断する理由のひとつと書いたが、ドイツも1939年に物理学者を招集し、核開発の検討を開始した。天然ウランと重水を利用する核開発が選択され、ノルウェーの重水施設を占領した。ウラン濃縮は技術的難しさから早期にあきらめた。ヒットラーの了解が得られず核開発計画は1944年頃までに中止された。ドイツとの終戦を前にして、連合軍がストラスブルクの原子物理研究所から科学者を捕虜とし、ドイツ核開発が想定されていたより遅れていたことが判明した。ドイツの敗戦に際し、連合軍が核開発やロケット開発に従事した学者を捕虜として、本国へ抑留し、その知識の獲得競争をした節があるのも興味深い。たとえば、V2ロケットの知見をソ連、米国ともその後のミサイル、衛星などの開発に利用したり、ソ連がウラン遠心分離濃縮の知見をドイツ人捕虜から入手したなどが知られている。

 

日本への原爆の投下

1945年になり、ニューメキシコでの実験の前後には、日本への投下を含む実戦での使用が見当され、賛否両論であった。結果的には政治家、軍部の判断で実行された。核兵器の爆発が確認され、実戦で使用されると直ちに、原爆に関する知識をMPに参加した3カ国に限定する必要性が強く認識された。第二次大戦の終結の時点でソ連の核開発は全容ははっきりと分からないもののその存在は知られていた。核兵器の存在とその破壊力が明らかになり、当面の課題として、ソ連への核拡散が懸念されることとなった。

 

米、英、加による原子爆弾に関する共同宣言(1945年11月)

1945年11月15日、トルーマン米国大統領、アトリー英国首相、キングカナダ首相は原子爆弾に関する共同宣言を発表した。少し長くなるが要約して引用する。

「(我々は)最近の科学的発見の戦争への利用による破壊は防衛しがたいもので、その使用は一国で独占されてはならないことを認識している。新発見が破壊のためではなく、人類の利益のために使われることを担保するための措置をとる責任が重要である。原子力の破壊的利用を防止しつつ、最近の科学的発見、とりわけ原子力の利用を促進する国際的行動が求められている。原子力利用に不可欠な科学知識を持つ3カ国は、その持てる知識を平和利用のために各国と相互に共有する。原子力の工業利用は原子力の破壊力とも極めて近い関係にあるので、破壊目的を防ぐための効果的措置(safeguards)がとられることが前提である。原子力の破壊目的の利用を阻止し、原子力の工業的、人道的利用を促進するために国連原子力委員会の設置を提案する。委員会は、加盟国間の科学情報の交換の拡大、原子力の平和利用に限定するための統制、原子力および大量破壊兵器による武装の排除、加盟国の違法な行為に対する査察そのほかの措置を行い、その任務は段階的に、とりわけ科学情報の交換、次に天然資源の開発の知識の交換へと進めべきである。」

この宣言をどのように受取るかは様々な視点があるだろうが、筆者は次のように考えている。

原子力の兵器としての利用と工業的、人道的利用は非常に密接していることを国際社会に警告し、査察を含む国際的措置をとることの必要性を説いている点は評価されよう。その一方で、当事者3カ国の将来における核兵器開発については触れておらず、情報の共有も科学論文と天然資源に関するものくらいに限って、しかも平和利用を担保する措置がとられた場合に限定している点で、相互に(reciprocal)と強調している割には3カ国の優位性を鼻にかけ、情報の独占への希望が見え隠れしていると思う。この宣言の時点でソ連の核開発は過小評価されていたであろうから、この様な楽観的な提案となったのだと思う。

 

国連原子力委員会

この宣言をうけ、1946年1月、国連原子力委員会が設置された。国連原子力委員会は短期的にはソ連にも支持(利用)され、1946年6月の委員会でソ連代表が核技術の廃絶、国際管理などを提案などを行い、つかの間ではあるが、国連での見かけ上建設的な議論が進められた。

 

原子力技術の国外移転を禁止するマクマホン法

しかし、ソ連の核開発が予想以上に進んでいるのを知った米国は、1946年8月に原子力技術の国外移転を禁止するマクマホン法を成立させ、1947年1月から施行した。これにより、MPは米国原子力委員会に引き次がれ終了した。マクマホン法により英国、カナダとの協力も打ち切られた。核兵器の米国の独占をめざし、英国、カナダを含む全ての国への核拡散に歯止めをかけることが強調されることになった。

これにより、英国は原子力研究所を設立し、独自の核兵器開発へと向かうことになり、1952年にオーストラリアで核実験を成功させた。

一方、カナダはMPの間、米国、英国、フランス(モントリオールはフランス語圏)系学者の協力を受けて、プルトニウムを生産する原子炉の開発を進めていた。終戦の時点ではモントリオールのパイル炉ZEEPが完成したところであったが、この後も重水炉の研究、建設を進め、1950年にNRX、1957年にNRU、1962年にNPDを完成させ、こうしたMP以来の原子炉開発の知識と経験を生かし、民生用動力炉CANDUの開発を進め、1960年代から今に至るまで各国に提供してきている。カナダは自らが核兵器国を目指す決定はせず、非核兵器国としてNPTの推進に貢献することになる。1970年代半ばまで、米国にプルトニウムを含む研究炉からの使用済み燃料を提供したとはいえ、カナダは1945年11月の宣言に忠実に実行し、国際社会に情報を提供し、平和目的の原子力利用を推進してきたといえよう。

 

米ソの核開発競争の激化

国連原子力委員会の活動は長く続かなかった。米国ではMPの初期から水素爆弾を推進する意見があったが、冷戦の深まるにつれ米国は水爆研究、原爆改良を加速していた。米国の核実験が続き、1948年の太平洋エニウェトク環礁での核実験に反発したロシアが反発し、国連原子力委員会は休会した。

歴史を振り返ると、こうしたソ連の動きは1949年8月29日のセミパラチンスク核実験場でのソ連最初の原爆実験を見越してのことだったかもしれない。

ソ連が核兵器国となり、1950年6月25日朝鮮戦争が始まり、冷戦構造の深刻化が進んでいった。

 

マッカーシズム

冷戦が厳しくなるに連れ、この頃から米国では共産主義者であるとの批判を受けた政府職員、ジャーナリストなどへの攻撃が強まり、核開発の貢献者の多くも公職から追放された。MPの主導者であったオッペンハイマーも公職から事実上追放された。

 

水爆実験の成功

1952年11月太平洋エニウェトク環礁で米国は最初の水爆実験を成功させ、核兵器競争に一歩先んじたが、朝鮮戦争休戦(1953年7月)後、1953年8月にはソ連も強化型原爆(当初は水爆と思われていた)実験を行った。こうした状況の下1953年12月8日、米国大統領アイゼンハウアー大統領の「平和のための原子力(Atoms For Peace)」演説が行われた。

 

過去に学ぶ

初期の核兵器開発を概観したが、次の点を指摘しておく:

過大視されたヒットラーの核開発に対抗する目的でMPを正当化したり、米ソの核兵器競争などに見られるよう、核兵器開発の正当化は、しばしば敵対する国の核兵器開発が進んだ段階にあるのではという恐怖にもとずくことが多い。最近でも2003年のイラク戦争は、イラクが大量殺戮兵器を保有する可能性を大幅に過大評価して、それを根拠に正当化して開始された。北朝鮮の核、ミサイル能力を過大評価してのアジア危機などを招く危険は無いだろうか。

米ソともドイツの科学者のを捕虜とし、その知識を戦後核兵器、軍事産業へ利用したことを指摘したが、同様の危機がソ連崩壊時にも見られた。ウクライナに関する前稿で指摘したが、ソ連崩壊はソ連内の共和国の研究者とその知識が拡散する危機に見舞われていた。核やミサイル開発に従事していた研究者が、核拡散を目指す国や組織に高給で連れ去られることが恐れられた。同じように、1980年代まで核兵器開発をしていた南アフリカ共和国では白人政権の崩壊時には、核科学者、技術者の頭脳流出が深刻な問題であった。これからも同じような状況が生ずるであろう。たとえば、イランを締め上げすぎると遠心分離の研究者とノウハウが拡散する危機は考えておく必要があろう。

本稿では米、英、加三カ国の原子力宣言を見たが、外交文書の本心を考える必要がある。本文では遠まわしに述べたが、要はたいした情報、技術移転はさしあたってしないと言っているのである。次にみるAtoms For Peaceについても、その本心を考えていきたい。

 核拡散とNPTの歴史(第二回):国際原子力機関(IAEA)の設立

 

コメント   

# アトム 2014年08月14日 12:00
科学者が戦争に協力したという汚点は、化学兵器や生物兵器と同じで、特別視しなくてよいのではないか。

規模が違うのと遺伝的後遺症の2点だけが異なるが、枯れ葉作戦で奇形児が発生しているのだから、最終的には規模だけが違うといえる。

冷戦に米が費やした700兆ドルを使えば根絶もできたはずなのに、惜しい。

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