ハンフォードB炉の歴史〜プルトニウムと物理学者の深い関係

環境汚染のリスクがあるにもかかわらず、核施設は(皮肉なことに)美しい自然環境につくられる。例えば米国のオークリッジ核施設(4つの施設の中の一つX-10が現在のオークリッジ国立研究所)はテネシー州スモーキー国立公園の近くの緑豊かな丘陵地帯にあった。緩やかな傾斜の山林は日本でもよく見られる地形で親しみやすい。この一帯は米国で最も自然環境が保存されていると言われるが、実際に田舎道で車が渋滞している時は大抵、野生のクマや鹿が道路を横切る時である。この美しい風景がかつて原爆製造拠点だったとは想像がつかない。

  

アーサー・コンプトンとハンフォード

マンハッタン計画の指揮をとったグローヴス准将は、計画が始まるとテネシー州に自ら赴きこの土地にウラン精製工場の設置を即座に決めたという。その後環境保護の志の高いテネシー州知事がプルトニウム製造工場の立地に強く反対したため、プルトニウム精製工場はワシントン州のハンフォードに建設されることとなった。

しかしオークリッジはウラン濃縮だけでなく当初はプルトニウム分離精製も目的の一つで、そのための施設X-10の目玉施設は黒鉛炉でウランからプルトニウムを生成し分離する試験工場であった。ちなみに他の施設ではウラン235の電磁気分離、ガス拡散法、液体拡散法のウラン濃縮工場であった。X-10で必要となる後段の化学分離にはデュポン社が参入することになる。

 

ハンフォードが選ばれたのはデュポン社がマンハッタン計画(オークリッジのX-10)に加わってからのことで、根拠の一つは広大な土地が必要だったことである。それにはコンプトン効果で知られる実験物理学者アーサー・コンプトンが原子炉数基と化学分離施設のために広大な土地が必要と判断したからである。

ハンフォード核施設(ハンフォードサイト)はワシントン州の東南部のコロンビア川が別の二つの川と合流する戦争とは縁のない場所で、元々はインデイアンの土地であった。その自然に恵まれた土地は長崎原爆製造に始まるプルトニウム原爆の製造拠点となり、冷戦を経て現在は閉鎖されている。ハンフォードのプルトニウム製造は下に示すように1962年をピークとして現在は閉鎖されているが、地下水の核物質混入など環境汚染が続いている。ハンフォードは世界で最も核物質汚染がひどい場所の一つとなっている。

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Credit: fas.org

 

ハンフォード核施設の概要は別記事があるので、ここではその中心であるB-炉(B-reactor)を中心とするプルトニム製造工程の歴史を紹介する。

 

デュポン社の影響力が強く働いたハンフォード

1942年12月にグローヴス准将の部下とデュポン社の技術者たちはハンフォードに現地調査に赴き、核施設建設候補地として(シカゴ大のフェルミの研究チームとデュポン社の技術者が作成した条件に)最適であると結論に達した。特に人口が少なく隔離されていてグランドクーリーとボンネビルダムの水力発電能力が重要な決め手となった。

その後、ハンフォード地区の住民とインデイアンたちは90日の猶予を与えられて転居を余儀なくされ、プルトニウム製造拠点の建設が開始された。ハンフォード施設へのデュポン社の影響力が強くなった理由は、オークリッジの黒鉛炉を含む実験施設X-10の建設と運営に関わりプルトニウム製造経験を積んでいたことと、戦争に協力して利益を得る巨大企業であったためである。

シカゴ大のフェルミグループの黒鉛炉がプルトニウム製造に適していることは知られていたが、使用済み燃料棒からプルトニウムを安全に抽出する分離・精製技術は難題であった。コンプトンは当初、シカゴ大のフェルミ研究グループが中心になってシカゴかアルゴンヌでプルトニウムを製造することも考えていたが、最終的には必要な土地獲得と化学処理に経験を持つデュポン社の影響の強いハンフォードでプルトニウム製造拠点の建設が開始された。

 

ハンフォードの黒煙型原子炉B、D、F

1943年から始まった計画ではB、D、Fの3基の「パイル」と呼ばれる黒鉛型原子炉と化学分離施設2箇所が1組で計4箇所が建設されることになった。これらの原子炉の建設でハンフォードは活気があふれ、全国から集められた労働者で1944年にはハンフォードの人口は50,000人に達した。

3基の中で最初に完成したB-炉(下の写真)の黒鉛ブロック積み上げ作業は1944年2月に開始された。長崎へのプルトニウム原爆投下(1945年8月)のわずか1年半前のことである。ハンフォードでのプルトニウムがこれほど急ピッチで進んだのはオークリッジX-10のスケールアップであり、試験工場で経験を積んだ技術者をデユポン社が総動員したためである。

なお爆縮型原爆の製造技術はロスアラモスのフォン・ノイマンを始めとする錚々たる顔ぶれの物理学者らが開発していたので、デーモンコアと呼ばれるプルトニウムコア(別記事参照)を運び込めればよかった。

 

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Credit: atomicheritage

 

プルトニウム製造で完成された核兵器

ウラン(スラグ)は反応(中性子照射)後に炉のそばにあるプールに保管され、化学分離施設まで自動運搬された。B-炉(250MW)は「シカゴパイルI」と呼ばれるシカゴ大学の黒鉛炉とオークリッジ施設のX-10黒鉛炉を発展させた設計である。その建設と運転はデュポン社の技術者が担当した。2,004個のチューブ(以下の写真)に60,000個の燃料(スラグ)が注入された。B-炉は水平方向と垂直方向から挿入される制御棒の他に、非常停止用にボロン球が投げ込まれる緊急停止機構を備えていた。

 

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Credit: atomicheritage

 

初めて経験するキセノンオーバーライド

B-炉の運転中に予想外に出力が低下する現象が起きた。これは後にキセノンオーバーライドと呼ばれる現象で、核反応生成物であるキセノン135の中性子の吸収効果によって原子炉の熱出力が低下する。熱出力を下げた時にキセノンオーバーライドによって、さら出力が低下することを知らなかった運転員が出力を急激に上げたことがチェルノブイリ事故の原因の一つと考えられている。

オークリッジのX-10もハンフォードの黒鉛炉B-炉もエンリコ・フェルミが指揮して、シカゴ大に建設した世界初の実験用黒鉛炉シカゴパイルIの発展型である。B-炉のリーダーシップをとったのはアーサー・コンプトンであった。原爆製造にはオッペンハイマー、ニールス・ボーア、エンリコ・フェルミ、フォン・ノイマン、ファインマン、コンプトン、アーサー・ローレンスなどの著名な物理学者が関わった(別記事参照)。

 

パンドラの箱を開けたのは物理学者

ハンフォードではコンプトンのリーダーシップのもとにデュポン社の技術者が総動員され、全米から集められた労働力でプルトニウム製造計画が推進された。オークリッジのウラン濃縮、ロスアラモスの原爆製造、ハンフォードのプルトニウム製造の全てがかみ合わさって核兵器が完成された。その全てのリーダーシプを取っていたのは物理学者である。

米国では原子炉事故の場合に核物理学者が現地入りして、事故の状態を分析し助言を与える。原子力事故後に現場で発せられるのは「物理学者を呼べ」である。その背景にはマンハッタン計画における物理学者のリーダーシップの歴史がある。しかし物理学者の積極関与は原子力利用というパンドラの箱を開けた物理学者の責任でもあるのではないだろうか。だとすれば物理学者には廃炉核物質処理保管などの問題解決に積極的に参加する義務があるように思える。

 

追記

毎年8月のこの時期になると広島、長崎に投下された原爆について頭をよぎるのは、原爆開発に物理学者の探究心が利用されたことである。きっと彼らはパンドラの箱の中には平和利用という希望も隠れていると信じていたのではないだろうか。物理学者とプルトニウムは縁が深い。パンドラの箱を開けた物理学者だが、残念ながら現在は「希望」はパンドラの箱に取り残された状態である。

ギリシャ神話のパンドラの箱はゼウスの贈り物であった。パンドラが箱を開けた瞬間に飛び出した「災いや不幸」と対照的に最後まで残されていたのが「希望」であった。最後に「希望」が飛び出して行った結果、人間世界に「災いや不幸」と共に「希望」も存在することになったという。物理学者が夢見たのはこの「希望」であったが、最初に飛び出したのは「災いや不幸」であった。パンドラの箱から「希望」を解き放つことも物理学者の使命なのではないだろうか。

 

 

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